まず最初に、沖縄に関わる全ての人々に衝撃と落胆、大きな喪失感をあたえた、首里城火災に際して、時間はかかるのかもしれませんが、沖縄の人々の叡智で、再建計画が進み、そして、その計画が実ることを心から祈っております。

つぎに、沖縄に来はじめて20年近く経ち、ここ数年はほぼ毎月来ている僕とは言えど、首里城焼失に関して、単なる雑記ブログであるこのブログに記事を書いて良いものか悩んではいたのですが、たとえば30年後の2049年に首里城が、再び沖縄の人々の象徴となり、全日本全世界の人々の共有文化財になったとき、一つの記録として意味のあるものなるのかもしれないという思いでこの記事を書きます。様々な意見や思いがあるとは思うのですが、僕個人の日記ということでご容赦いただけると幸いです。

2019年10月31日未明それは起きた

2019年10月31日。朝起きて、スマホでYahoo!ニュースを見て、それを知る。「首里城焼失」。この文字の並びの意味を理解するのに2分3分くらいはかかった。ありうることなのか?僕が、2001年8月にはじめて沖縄に来たときから、そこに当たり前にあるものがなくなるということがあるのか、理解ができなかった。そんなことがあるのか?理解したあとも、そう思った。地元沖縄の沖縄タイムスや琉球新報を見ると、ショックで登校できない小学生がいるという記事を見て、事の大きさを理解した。実感した。と、火災から数日経って、この記事を書いている今、振り返ると、そう思う。

偶然にも、火災から3日後の2019年11月3日に沖縄那覇にいく予定であったため、到着は夜ではあるものの、まっさきに首里城へ向かうことを決めた。

そこにあるのは風景だった

11月3日18:30 那覇空港に着。
僕たちが那覇で利用するアパートは、那覇空港から車で25分程度、首里城へは車で7分程度のところにある。すぐに行ける距離であるため、まっさきに向かったわけだ。
11月3日は文化の日。土日が絡めば、3連休以上になる。今年2019年も3連休。「これまでの首里城」では、ライトアップが行われるため、19:00くらいではまだ人がいるのだが、僕が首里城公園の龍潭についた19:00には人はだれもなかった。

覚悟はしていた。が、恐ろしく残酷な風景がそこにはあった。あるはずのものがない。
夜の首里城は、漆の効果により、とても美しく映えていた。再建計画が進む中、瓦の色などは、戦前の焼失の前とはちがっていたことが古い資料から判明しているそうだが、それを差し置いてもきれいであった。正直なところ、首里城が健在の頃は、昼の姿より夜の姿のが好きであった
しかし、それがないのだ。


撮影場所が違うけれども、これが2010年夏の首里城の夜がこの雰囲気だ。全く別物になっているのがこれだけでもわかる。

10月31日の未明。あれだけのものが焼失してしまうほどの火災があったのだ。小さい小学生にとって、物々しい雰囲気が街を包み、登校ができなくなるのも納得できたのは、やはりこの場に立ってからだ。

この日は仕事がまだ残っていたので、首里城を後にし、仕事に向かう。

明るくなって見えたものは廃墟だった

明くる日の11月4日。再度首里城公園を訪れる。

昨晩真っ暗であったそこには明らかに焼け焦げた建物がある。ご注意いただきたいのは、この焼け焦げた建物は北殿という建物で、観光案内などで見る立派な建物正殿ではない。このアングルから見えるはずの正殿は、見ることができない。マスコミ報道で既報の通り、正殿は完全に焼け落ちた。見る影もないというのが、ようやく理解できた感じがする。

龍潭から首里城正殿方面にあがっていく。心配して見に来る沖縄県民、もともと旅程にはいっていたので見に来る観光客、そして、マスコミ。以前訪れたときとは明らかに違う龍潭から首里城公園正殿方面への道。首里城公園の休園をお知らせする張り紙があちこちにある。何人かのうちなーんちゅに声をかけた。不思議と悲壮感はない。うちなーの気質なのかもしれないが、もう一度再建するし、できると信じている人が多いように感じた


守礼門のほうまで、放水ホースが引かれたままだった。報道によると、火災翌日になっても煙はあがったままだっただということで、火災自体が大きなものであったことを感じさせる。


いつもだったら琉装記念写真を撮ることができる守礼門も、休園なので、スタッフも不在。客足もまばらである。

首里城公園メインエリアは歓会門まで


首里城公園メインエリアの一般立ち入りは歓会門までとなり、それ以外の大部分は規制線がはられていた。たくさんのひとが、どうすることもできないままに、言葉なく正殿方向を見ていた。


黒いTシャツのお兄さん。あなたのすぐ左手にある建物。園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)が、首里城公園においては建造物として唯一の世界遺産なのですよ。と思いつつも、シンボルである正殿を失った首里城公園は、報道のヘリが放つ喧騒だけが鳴り響いていた。


ちょうどこの日午後に県関係者、国会議員などが火災現場視察をするということで、県警の偉い人だと思われる人々が、正殿方面にたくさん上がっていっていた。

首里のすべてが失われたわけではない


首里城公園のすぐとなりには、こんなきれいな石畳道がある。この付近には首里が聖地である所以のひとつとなる湧き水があったり、古くからの家屋があったり。紅型のお店もある。観光に行くに値する町並みだ。とくに、石畳茶屋「真珠(まだま)」は、僕が沖縄にいきはじめたころからあるお店。那覇市街を一望しながらゆったりとお茶を飲むのは最高の時間だ。


首里城公園の人工池龍潭の横には、不思議な鳥「バリケン」たちが、みんなを待っている。

前述の通り、首里城公園唯一の建造物としての世界遺産「園比屋武御嶽石門」は健在だし、首里城の遺構そのものが世界遺産であるため首里城の価値も失われていない。とにかく間違えてはいけないのは首里の価値は失われていない。いまだから行こうとかそんなきれい事を言う気はさらさらないが、行く意味はまだまだある。観光で沖縄にはじめて行く人々にとっては、行ってほしい場所のひとつであることには変わりがないことを確認した。


警察官たちもマスコミ対応や、入場規制への対応で人が増員されていた。

うちなーんちゅの人たち

何人かのうちなーんちゅに話を聞いた。みんな揃っていうのは「自分が生きているうちにもう一度首里城の復元は見られるのか」。
首里城の復元においては障壁がかなり高いことがわかってきている。

  • 首里城に使われた琉球瓦は、首里城の前回の復元の際には、すでに1社のみしか持たない技術で、その匠もすでに他界していらっしゃり、技術自体がすでに失われている。
  • 前回の修復時は、台湾の木材を利用して、修復が行われているが、現在台湾は木材を輸出することができなくなっており、木材が大量に足らないのではないか?
  • 前回の修復時は、工具なども琉球王朝時代に利用された工具を使う試みが行われ、日本中から集められた匠たちは、個々人の研究において使い方を探り建築された。その技術自体の復元のハードルが高い

など。さすがのうちなー。こういった情報は細かくご存じの方が多い。過去にはなかった技術で復元を早められることを祈るばかりだ。
また、さまざまな意見の中には、復元にあたり漆は塗らなくてもいいのではないか? 復元後はライトアップは要らないのではないか?という意見もあった。こういった意見もかんたんには否定できない。うちなーのシンボルとしてのあり方としては、観光資源よりそちらを優先したいという意見も間違っていないだろう。

どういった形にせよ、失われて初めて感じることなのかもしれないが、とにかく上述の通り、沖縄県民の叡智をもって、復元計画が進むのを待つばかりである。

支援は広がる

沖縄県がクラウドファンディングにて支援を受け付けている。11月4日の滞在時、沖縄県内のラジオを聞いていると、支援が2億をこえ、もうすぐ3億だというニュースを聞いた。
知り合いの沖縄古典芸能をやっていらっしゃる仲嶺良盛さんはチャリティーコンサートを開いた。
沖縄を離れた場所においては、懇意にしている愛知県岡崎市の「いちゃりばちょーでー」では、店主手作りのグッズを通じて支援を募っている。
とにかく大小さまざまな支援がひろがっている。
僕は琉球エアーコミューターを通じて、手持ちのJALマイレージを全額寄付手続きを行った。

おそらく、この首里城ショックは、一種の「旬」みたいなもので、少しの時間をすぎれば、やや下火になってしまうことは致し方ない。2019年は様々な自然災害が日本各地を襲い人命に関わる災害もたくさん起きた中で、同じレベルで首里城の焼失を捉えられるかというと、やはりそれにも無理があるのは否めない。

たとえば、もし「ちょっと毎日に疲れたな」とおもったのだったら、ちょっと沖縄へ行ってみる。というのでも僕は十分な支援になると思っている。(LCCで安くいけるよ!)熱い支援でなくてもよいので、世界遺産である首里城公園の復元に少しだけでも、多くの人の関心が寄せられればと僕は思う。

30年後(になるかわからないけれども)の復元時に、この記事が、なにかの役に立っていることを願って。
現場からは以上です。